おぼろげに、まだ幼かった私が母親に連れられてアイ・ラヴ・ユーを観に行ったときを覚えている。
主演を忍足亜希子さんというろう俳優が演じたということで評判になっていた映画だ。
当時の私は、映像の中の主役の女性を本当のろう者とは知らず映画を観終え、帰り道で「あれ菜々子とおなじろう者なんだよ」と教えられ、衝撃を受けた。
たぶん小学1年生にもなる前の記憶じゃないかと思う。

ろう学校の小学部に進学するとき、同級生がみんな公立小学校に転校していってしまった。
ちょうど私が生まれたのが、人工内耳の手術が普及しはじめのころだった。人工内耳を着け、ろう学校の幼稚部を卒業すると一般の小学校に入るケースが当時は多かった。
その煽りを受け、私は同級生を失った。小学生時代の6年間に加えて中学生時代の3年間、先生とのマンツーマンで授業を受けた。
私は自分の教室を持ったこともない。いつも「1・2-1」みたいな感じで1つ上か下のクラスに入れてもらい、授業時間は移動して教材保管室のような場所で小さな黒板を使って授業を受け、休憩時間に教科書を入れ替えに教室に戻る、といった生活だった。
自分のクラスで、机から動かずに給食の時間を迎えることにとても憧れた。
なによりも、教室で同級生とお手紙を回したり、内緒話をしたりしたかった。
思春期を迎えた私は、教室に戻ると楽しそうに同級生と笑いあいながら授業を受けているクラスメイトを見て、自分自身のことをみじめに感じ、毎日布団の中で泣いていた。
小学5年生で書いた作文『コンプレックスとの戦い』には、当時の気持ち、負の感情をありのまま原稿用紙にぶつけたものだった。
これが全労済の作文コンクールで最優秀賞に選ばれたことは、1つの大きなターニングポイントだと思う。
東京の高級ホテルでの授賞式に呼ばれ、著名な落合恵子様にも絶賛のコメントをいただき、にやけながら写真を撮ったその瞬間、私は別の生き方を見つけてみたいという欲が芽生えた。
その頃、当時の担任から「手話落語」という存在を教わった。確か自立の授業の時だったと思う。
ビデオテープを教室で観た。そこには、手話を自由自在に操って舞台の上で輝く落語家がいた。その日から、先生の勧めで手話落語を見様見真似でやってみることになった。
すると、これがもう楽しいこと楽しいこと。馬に顔を蹴られて顎をボキッと治すシーンなど、身体表現と表情でみんながどっと笑ってくれる。これがもう嬉しくてたまらず、のめり込んでいった。
実際の舞台も経験した。プロの手話落語家の前座としてお客さんを前に落語を披露し、みんなが笑ってくれた。演じること・表現することの楽しさに目覚めた。

その日から「俳優になりたい」という夢を持つことになる。
自分にしかできない表現が必ずあるはず、それを世の中に発信したい。そういう思いからだった。
小学6年生のとき、日本ろう者劇団のワークショップに参加した。小学生は私ただ1人で、他はみんな大人たちばかりだった。
その中に、忍足亜希子さんがいた。あのアイ・ラヴ・ユーの忍足さんだ。
緊張で震えながら、「私も俳優になりたいんです」と伝えると、「なれるよ、がんばってね」と背中を押してくれた。
サインをもらおうにも、忍足さんがいるとは知らなかったので色紙もペンも持っておらず、私のカバンに入っていたメモ帳とキラキラペンでサインを書いてもらった。

母が新聞の番組表欄の右上に載っている広告を切り抜いて私のところに持ってきた。
「劇団ひまわりの研修生、募集してるんだって!応募してみる?」
紙切れを見ると、当時トヨタのCMでこども店長として有名になった加藤清史郎さんが私に笑いかけていた。
オーディションに行ってみると、当然ではあるが、ろう者はわたしひとりだった。
でも、わたしはひとりぼっちには慣れている。不思議なことに、何も全く怖くなかった。実技審査でも堂々とセリフを手話で朗読し、自分なりに表現した。
面接では「日本一のろう俳優になりたい」ととんでもないことをどや顔で言い捨てた。当時小学6年生、怖いもの知らずにもほどがある。
奇跡的に、面接官が私のことを気に入ってくれ、受け入れを承認してくれた。

これが私の俳優への道の第一歩となった。
そこからNHKドラマに出演、舞台公演などとさまざまな経験を経て、映画『咲む』主演につながっていく。
そのあたりの話もまた次回以降、書いていこうと思う。
